J_K3rdKのブログ

単なる、浮世のバカ話

写真作品の展示展開や表現の変化について

さて、これも即興で纏めた写真達だけれど、ある程度の説明も要るのではないかとも思い、書いてみた。

https://note.com/ken_k_the3rd/n/ndf7ad8650f0f

今回のセレクトの参考資料はこちら。

https://www.designstoriesinc.com/panorama/sylvain_cardonnel/



写真だけでは、どうにもならないので新たな展開を模索中。
参考資料を読んで即座にセレクトをした。解釈を広げるために。
「日本的」という態度があまり好ましくない。少なくとも東アジア~東インド文化圏くらいはカバーしたい。


写真表現の最大の弱点は、写真展を開催する事自体が「最大の目的」になりがちである事。展示は自己開示の場として有効な場合が初期には多い。しかし、少しでも実態以上に評価を始める人々が必ず現れ出す時に、発表のペースや方向性や、表現範囲の確認を行い、それが、最適なのか?という自問自答をしなければならない。


さもなければ、作品は属人的な評価にとどまりがちであり、本来目指すべき普遍性や発展性の面でいえば、権威からの意味なき影響を多少でも受け、それが純粋さと瑞々しさを失わせることに気づきにくい。


ある範疇までたどり着くのに、10年はかからないだろう。早い人は、3年で十分だ。その後、誰かの系譜をなぞるのではなく、開拓する道筋を見出す為に「立ち止まる」必要もあるのではないか?


その時、人は変化が加速度的に増加し、その年齢までの様々な体験、経験的な要素が統合的に絞り上げられつつ、再生産するように、作品の根幹が定まるのだろうと感じている。

そこから、その確固たる価値を如何に展開するか?という新たな難題にぶち当たるのだ。今はそこにいる。

つまり、分離派的な動作が内面で自然に立ち上がってくるのだろう。

 

※私が自分の写真について何かを説明するというのは、どこぞの知らない古い知見の権威や得も知れぬ研究者モドキをけん制することである。そして「自ら認める研究者」以外から、そうそうに過剰によくも悪くも評価をされることを徹頭徹尾拒否し続ける態度だからだ。

 

ここ、私なりに写真の位置づけを明示したのだけれど、視座を広げないと写真をやっているうちに、何かをなす以前に、「私たちが存在できるスペースがなくなっちゃう」でしょ。そこを前提にして組んでいかなきゃならない。そっちは待ったなしだから。

k3rdk.hatenablog.com

 

 

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