J_K3rdKのブログ

単なる、浮世のバカ話

note、やってます<(_ _)>

note.com



 

 

このところ、東京23区の都市景観にかかる写真集などの編集、リリースにひと段落ついたのでホッとひと安心。

 

東京を2012年頃から取り始めて、その間に写真学校にキッカケを得るために在籍、卒業したり、大学以来の学生?生活とビジネスを併用しながらようやく、マイルストーンを置くことができた感じ。

 

ありがたいことです。

 

なお、写真集にまとめたメインになった1冊が、「地」を歩く -東京23区 2018-2025-です。

 

また、東京23区を歩き尽くして感じた主だったプリミティブな要素を集約し、まとめた見開きA3サイズ、つまりA4縦位置の写真冊子が4種類、計5種類のまとめを本、小冊子で残すことができました。

 

まずは、関係する皆様方へ御礼申し上げます。

 

www.kthe3rd.com

 

各種写真集・写真冊子のページ

www.kthe3rd.com
皆様のご感想・評

www.kthe3rd.com

 

田中長徳氏「アンソロジー写真集」出版プロジェクトから 応援投稿

motion-gallery.net

 

写真集が初めての方も、多くのストリートやコンポラや、それにかかわらず、世界に興味のある方へ田中長徳さんの「アンソロジー写真集」を手に取ってみて感じて欲しいと、心より応援しています。

ぜひ、田中長徳氏の集大成とも云える写真集を手元におき、いつでも開いて「世界を見るという体験」を味わってほしいです。


"If you're new to photo books, or interested in street, contemporary, or just the world, I really hope you'll check out Chotoku Tanaka's "Anthology" and see what you think. I truly support this book." 

"Joining this crowdfunding might help you realize what it means to see the world."

FROM K.

 

写真を如何に展開するか?コンパクトなまとめ(趣味なのか仕事なのか?決してプロとかアマチュアという陳腐なものではない)

 ある、進歩的な写真表現者の展覧会からコトバから引用したワンブロック

 

「それは探し求めるものではなく、ある瞬間、不意に訪れるもの。
視線が彷徨うとき、世界が語り始める。
私はイメージを捕まえない。
イメージが私を選ぶのだ。
都市の喧騒の中で、その手は触れない。
むしろ、カメラがそっと撫でるように、世界を映し取る。
すべては自然に、あちら側からこちらへと、体の内に降り立つ」

 

写真行為って、そういうものだと感じてるけれどねぇ。だから、カメラは後でいいし、ヒトが「歩く」とか、そういう地盤の上にしか成り立たないと感じるんだよ。

【写真表現と世界の関係について】

あとね、そろそろ、西洋、つまり欧米の発祥である写真が、インド以東のこの島国を含むアジア圏の文化基盤(宗教性を含む)をとらえてないと、もう写真に余白がないんじゃない?

だから、ヘッセの「シッダールダ」も、東の果てに行き着いた千葉の房総半島の小湊にたどり着いた、仏教の集大成を「仏法西還」というが、そういう新たな地平に展開することで、この地上の表面の「行き詰まり」から、一歩踏み出せないか???って言ってんだけれどね。それが内向きの指向性だけになった時から、組織的なものに何の期待もしなくなったのだ。

明治維新のままや、土着性としての島国文化や東アジアの一部でしか通用しない狭い価値体系では相手にされないと思うんだよ。
つまり、当初アメリカが新興国だったころに、文化基盤が「ない」状態だったので、「写真」を文化的な基軸価値のひとつに選択したのも、意味がある。

「文化基盤が薄弱な地域は土俵にのせない」


という、先進国のコモンセンスがあったはずだろうからね。
今、この島国には文化が浮世絵とアニメくらいしかない。それで対話が成立するとは思えない。つまり、自己満足だということだ。

で、如何なる表現を模索するかということが、私のメインストリームの仕事であって、経済理論は後回しで全然かまわない。それに振り回されずに如何に経済の件は使いまわすか?の方が有効だろう。そんな「幽霊みたいなもの」に振り回されても仕方あるまい。夏の怪談の方がマシだ。

 

陶芸的建築

 

 
 
 
 
 

初めから、その辺りが理解できないというのは教養の話。専門性ではない。あーあ。

note.com

 

 

当然そうなると分かってなかったかな?

財界は、頭のねじがないか、すっ飛んで血を噴き出してんのか???

 

ちょっと、アメリカの成り立ちとか文脈とか、そしてトランプがなぜ、曲りなりにも大統領になったのか?

 

ほんの、3分、カップラーメンでも待ってる間に考えても分かるレベル。。情けない。

 

「話せばわかる」と言いたいが、それはやせ我慢である。話しても分からないものも多い♪

 
 

さて、そういう写真をランダムに並べてみました。
まぁ、気軽に楽しんでいってくださいなー♪
明日の準備で、そこそこ忙しいんですよー。ではリンク集にて失礼<(_ _)>

初期は、撮らにゃ、何もわかりはしない。「話しても分からない」

つぎは、お行儀のよい写真たち。

うーん、一枚目のにゃんこがすごい怒ってるね、笑。

こんな風に、こじんまりとまとまり始めたら「危険!」

玉石混合で、カオス気味。トイカメラがいい味になる。でも、猫もやはり町には必要だ。

「話せばわかる人もちゃんといる、両方いるのだ!」

あんまし、お上のルールばっか言ってないで、自分なりのなんか見つけたいもんだ。それがその人の本来の姿なんじゃーない。脳みそが筋肉じゃなきゃね。ははは(乾いた笑い)

では、良い午後を!

「跳び箱について」(得手不得手を除外して解釈してみる)

 
 

小学校の体育の授業で「跳び箱」をやったのを思い出した。
まぁ、ある種、このような事案を成績として数値化するのも滑稽なんだと思っているんだけれど・・・・

だから、それ以外の部分を思い出して整理してみた。

あれって「何だったのか???」
それも後で書くからいいんじゃないかと。

・跳び箱に向かうとき、僕は体育館のあるラインのところに立っている。
・次に走り出す。
・そして、ジャンプ台みたいな踏切台に軽く足を置く。
・飛ぶ。
・何かに(跳び箱の上)手を軽くつく。
・そのまま、跳び箱がなかったかのように着地する。

ざっくり、こんな順番だと思う。
この時、この書き方でおおざっぱにわかってしまうと思うんだけれど、「跳び箱」の存在なんて、たいして気にしていないってこと。気にするほど、飛べない。
そんなものは「別の何かに置き換えるか無いものと思っていた気配がある」

つまり、そんなものはどうでもいい。

「その時に、跳び箱を前に、僕は何がしたかったか???」

ってのを、小学生のころのなんとなしの記憶をたどると、わかる。大人にならないと言語化できない事は、とても多いのだ。

「単純に、高く、遠くに飛びたい」だけだ。跳び箱はたまたま、「その動機」にしかならない。

もっと言えば、日常的に外で走り回ったり、泥にまみれたり、校庭でキャッチボールをしたり、サッカーボールと戯れたり、その延長にすぎないんだよね。

それ以前に、こどもっていうのは、そういう走り回ったり、秘密基地だったり、彼らなりのプロトコルで、前に進もうとしたり、危険をを察知して逃げ込んだりする「場所」を知っていたし、その中でバランスをとっていたんだろうと思う。

その一部を切り出して、体育の授業を捉えていたんだと思う。

跳び箱だけじゃないけれど、日常の事なので、得手不得手もそれぞれだけれど、跳び箱みたいな象徴的な「遊戯」について、それを捉えるときに大抵は「なぜできないか?」ってのが、メインテーマに上がるのだけれど、そんなのはある程度どうでもいいんだろう。

ちょっとコツがあるのは確かなので、そこをつつく事は教師も知っているだろうし、それ以上に無理をするのは少々野蛮なんだと思う。
なぜなら、大抵はそれ以前の日常に由来するから。
日常からやっている事の延長にそれがあるから、できる事だったりするケースは多いようだ。だからできにくい事も多い。日常はそれぞれ異なるので押し付ける意味があまりない。

【話の切り口を少し変化させる】

困ったのは、最近聞いた「放課後に校庭は閉鎖」しているという「時代性」
ここまで、やりにくい事になっているのか???と、正直に言えば驚く。

特に、都市部のこどもにはそれが最後の砦みたいな部分もあるから、そこを閉鎖しちゃったら、どこで「本質」の一部を体験して会得したらいいのか?
困ったなぁと、思うんだよね。しかし、この治安だしねぇ。時代性。


懐かしいとか、

どうでもいいんだけれど、非常に効率が悪い。


ヒトの基盤って、都市の自然でもいいんだけれど、そのヒトの根本的な「歩く」「走る」「ジャンプしてみる」「くぐる」とか、欲張って言えば、他の種である「犬」「猫」「鳥」「昆虫」との接点だったりする。

それがあまりに少ないと、どうなるんだろう?


効率っていうのは、自然由来の地盤が強く作用して「効果的に効率性」が発揮されると思う。

僕の場合、大人になってからは主に営業やマーケティングの一部、接客なんかがメインのビジネスだったのだけれど、相対する「ヒト」がある程度の「納得」を感じて、初めて物事が進んだり成立したりするものだから、論理だけで作られた提案書や、そのプレゼンから発せられる「声音」やその「音量」「身振り」「熱量」も含めて、判断になるじゃないですか。

それは「効率」なんで、「そこを省いても効率は良くならないのだから」

結局さらに遠回りをして、ツケを後で払うってことは結構多いのだ。

ビジネスも効率というときに「跳び箱」の体育の授業とあまり変わらない。


日常の基盤の上になりたっているので、それ次第じゃないかなぁというだけなんですよ。

AI、どう使うか?これも体験の基盤。
IT、理解できるかも結構体験。
DX、同じ。
マイナンバー???机上の空論だから、かなり遠回りするだろう。
マイナ保険証。これは強制装置だから、儒教圏以外では即座に廃棄されるだろう。ここだから、まだ10パーセント強のひとが(たった・・・)支持するだけだ。

 

ショートカットできるには、地に足がついてないとできない事が多い。

それをどう、確保しなおすか?って、意外と忘れ去られているようにも思う。

さらに転じて【どんな判断で展覧会の観る見ないを決めているか?】ってことに触れたい。

以前、書いたけれど、福岡伸一氏の原体験は「蝶の不思議さかな?」に魅せられて、それを追いかけては自然の中に入っていったという「自然への原体験」があるから、その基盤が強固なんだろうと思われる。
そういうのは展示でうまくいっているかどうかは見ないとわからないけれど、見てみる価値があると思う。そうでないと、大抵机上の空論か、もはや活力を失った古典芸能の陳列を確認するだけで終わってしまいがちだから。

だから、この「火の鳥」の展覧会はとりあえず見に行きたい。同じ会場のルイーズ・ブルジョワは、あまりに心臓に悪いから僕は遠慮しておく。
森美術館はたまにそういうのをやる事があって、よくわからない。下記に引用した「Chim!Pom」の展覧会も、新しい切り口は「公共」の部分だけだったし、あとは従来の価値観を揺さぶるまでいかなかった「再定義」みたいなものだったからね。「公共」のコーナーの展示は良かった!これね。

傾向として、森美術館はそういう展示をしたがると、僕は認識してしまっている。
しかし、その今ある自分の感じ方も、しばらくしたら変化すると何となく予想している。固定化したときに何かが終わる気がするから。
安定は長期で見れば衰退であることは、昔から言われている事なので。

話が、「跳び箱」から「観る展示」までやってしまった・・・・でも言いたいことは、同じなんだけれど・・・

ついでに、学生時代に読んでおけばよかったと思うのが「ヘルマン・ヘッセ」の「シッダールタ」50歳になって初めて読んでいるけれど、これもいい塩梅で読めると思う。では、朝早く起きちゃったので、書いてみた。

あと、要注意なんは「僕みたいな年齢層」のおっさんになっていくほど、「屁理屈」つまり「体験談を含まない机上の空論や倫理観の押し付け」にまみれがちなので、僕もそうかもしれないし、他にそういう記述があれば完全に視界に入れていない。一度読んで、次にタイトルをみて「あ、同じ感じだ」って、判断でもう読まなくなっちゃう。。。。別にいいんだけれど、読んで怒り出す人もいるから・・・

ウジューヌ・アッジェからの逃避行

 
 
 
 
 
 

 

 

ある時から、つまり都市のランドスケープを開始して以来、まれに「ウジューヌ・アッジェ」について、展示会でも語られることがあった。

 

それは、数名の先達なのだが、私は当初意味が分からなかったし、さらに言えば、そのアウトラインを知った時点から、そのレジェンド的な扱いの「ウジューヌ・アッジェ」を視界に入れたくなくなった。

単純に、天邪鬼な性格にも寄るところがあると思うけれど、そのような「レジェンドへの誘導的な気配」から、如何に逸脱するか?そんな気分が意識のどこかに流れ続けていたとも思う。

 

「アジェ」という存在を如何に「意識下に見えないようにするか?」

という、半ば無意識、またはその「音」を聞くと、そこから意識が逃亡していくのを今は確認できる。

が、自ら資料となる書籍などを直感で選んで、積読するタイプの私のもとに「決闘写真論」(篠山紀信中平卓馬)という文庫を何の気の迷いかわからないが、購入してしまったのだ。そのまま放置していたのだけれど、次に購入した写真集の納品書に目を通すと、何か変か気分になった。

「決闘写真論はいかがでした?」

と、メモ書きが納品書に手書きで書いてあった。
写真の世界は、割と狭い。しかしその納品書に書いてあるメモの主の名前を聞いたことは今までなかったし、私の怠慢じみたところだったかもしれない。

画像
誰だろう、何か営業センスのあるセールスパーソンのようだ。


が、とりあえず開くことにした。

目次を見て、読むところを決めるのが私なりのやり方なのだけれど、ここで最初に「なんだこれは!」と、感じざるを得ないものがあった。

これは中平卓馬の文体であるから、それなのだろうけれど「家 都市への視線あるいは都市からの視線」と、目次のはじめにあった。

画像
これが目次

他にも短編的に様々な項目が見えた。見たくないとも感じた。
なにかに誘導されるのは、一切ご免被るという天邪鬼が顔をぬっと表し始めた。

ただ、中平卓馬の記述について一度「なぜ、植物図鑑か」-中平卓馬映像論集-(ちくま学芸文庫)の第一章の前書きを読んだことがあったので、取りあえず読んでみようという気分にもなったのだ。

画像
この第一章の前の「なぜ、植物図鑑か」を読み終えて、読むのをやめてしまった。

「なぜ、植物図鑑か」では、そうだったけれど、第一章以前の前文で、その映像論集のほぼすべてを語ってしまっているように感じたので、各論はまったく読まなかったのを記憶している。つまり、前文以外、いらないようにも生意気にも感じたのだ。

話をもどそうと思う。

そのようなわけで、決闘写真論(タイトルがあまり気に入らなかった。決闘なんぞ意味がないと思っているから、なぜ買ったのか?記憶にない)、の「家」を読み始めて「しまった!!!」と思ったが仕方ない、乗りかかった船だ。

「これはあの、ウジューヌ・アジェの話だ!」

如何にも、面倒な事態に巻き込まれたかのような気分になったが、中平卓馬が言っている事として、アジェという存在を匿名的に読めばいい。と進めてみた。

その間の、私の思考プロセスは省略もしくは割愛したい。とても記述できるものじゃない。端的に言えば、中平卓馬の都市からの視線と、ほぼ同じような事を考え、感じ始めていたのだ。

この一年ほど、2018年(もしくは2017年)から継続している都市のランドスケープの写真群を、誰かれにでも勝手に定義されるのを拒否したかったし、この一年の長考の間は、ほとんどすべてのアドバイスを基本的には拒否してきたのだから。※ほんの二名ほどの意見しか聞いていない。

再度、オープンになるのは2025年からだろう。

アドバイスというのは、こちらが窮したり、何かを打破する事が、困難の極みに達したときにお願いしたり要請するものだという認識に2023年初頭の時点で、態度が変わっていたのだ。

何でも受け付けて、取捨選択するには世界中に存在する考え方や要素が多すぎて、もはやオーバーフローすると感じ始めたのだと回想できる。そもそも、そこまで大きい器を持っていないと気づいたと言ってもいいかもしれない。

現在、写真それ自体をモチーフとして扱うと決めた事はおそらく、私にとっての現時点での最適解だと思う。それは間違いないのですぐには変わらない。

ずいぶん、言いたいことを書いているけれど、その率直さを「自立性」とみるなら、このような偶然の介入(納品書のメモ)は、致し方ないというか、それ自体がある程度の参照した方がよいものなのかもしれない。

しかし、言えば、中平卓馬の「家」(決闘写真論の最初の短編)は、写真の結論じみていて、その先へのステージは見えない。つまり文句のつけようがない。
であるから、中平卓馬の記述は「参照」までにしないと、足を沼にとられかねないと、改めて確認したようにも感じる。

曇りか雨を中心に歩く事にしている。その間は野良犬になったようなマインドセットをする。帰宅してから、取り込んだ写真を流してみておく。そんな感じ。

そして、気づいたバランス。

こういうことを書いた後に、何かすらの「違和感」を感じることがある。
その時に、こういう「有無を言わさないくらいの純粋さ」として「サン=テグジュベリ」の「星の王子さま」あたりを数ページ見るだけで、何かの調和がもとにもどっているのだ。日本語でいうなら、結構なシュールさかもしれないけれどね(^^♪

画像
 
 
 
 
 

「アワード」○○賞という、扱いに困るものについて

ノーベル賞というものがある。
大抵は、何か「新しい事ができる」ようになる「発見」や「兆候」というヒトの現象について、それが評価される。

平和賞はちょっと毛並みが違うような気がしている。

そもそも、ダイナマイトって何かを破壊して前進するための火薬を「善意的」に発明した、アルフレッド・ノーベルという人物のストーリーが前提になっているはずなんだけれど、いわば「始末のつかない」発見や開発についての、注意喚起の意味も本来は含んでいるはずだと思われていた。(新技術や発見の悪用について人類は無頓着にすぎる)

なんで、ノーベル賞ってのは、難しいアワードでもある。

「できる事」を発見した。だけじゃ本来は「不十分である」と、個人的には断定的に考えているから。

例えば、人類が取り扱える技術の中で「核物質」について云えば、これは「始末」に負えるのか?という事を考えてしまうんだよね。ヒトに賞は必要か?(振り切った書き方をしてみる)

できる事は、割と簡単に見つかる。でもさ、それって実行したときに、原状回復や価値を分解して廃棄できるか?という事について、ノーベル賞はどこまで本来の意義を現代において含んでいるか?

といえば、はなはだ疑問なのだ。

いわば、ブランドが実体より乖離して過剰評価される最も危険なアワードでもあるといえないか。
まぁ、殆どの「賞」「アワード」というのはそういう側面を必ずもっている。

そんなことを文脈化できなかった、小学生中学生時代にいくつかの賞をいただいてしまったこともある。市長賞とか、意味が分からない。って感じだった。
うれしいと瞬間最大風速として、感じたのは否定しない。くそ人間コンテストにでれるね。

スイミングクラブ内の大会で、毎年メダルを手にした事は自信にはなった。
けれど、そんなものは実際は金属の塊に過ぎないと気づくまでそんなに時間はかからない。

トップブランドであるノーベル賞も同様だろうと思う。
もらってはおくけれど、「そんなん関係ないね」って態度が本来受賞するひとの資質なんだろうと思う。

さて、稀に要らない「賞」も見受けられる。
写真でいえば、「名取洋之助賞」なんてのは最たるものだろう。

戦中に、プロパガンダ誌のために注力した名物写真家だけれど、その技術だけ抽出すれば、それはもしかしたら「お褒めに預かる」に値するのかもしれない。

ただ、WW2を賛美したという事自体をどう位置付けているのか?
再評価されてもよいのでは?
賞金などは、微々たるものである。つまり半端なんだよね。だから誰もエントリーしようとも思わない。

世代が被る、土門拳ともうまくいくはずもない。土門は「絶対非演出」という写真行為に至ったのだから、間違いなく戦争へのアプローチが反対側だ。
表現手法としてどちらが良い悪いという事より、

「どんな分脈で新しい価値を提示したか?」

という事案の方が、「賞」の価値を位置づける動機になった方がよかったのではないか?と、思われる。

さて、身近な社会人の「賞」の例でいえば、「ギャラクシー賞」などは会社によっては導入されていたり、なかったりするかもしれない。そのような「賞」は、どのような意義があるのだろう。

(その人は大学卒業の時にも(政治学部所属だった)、年度で賞があるかないか分からない一名だけ受賞できる「賞」をもらっているが、反骨精神の塊のようなひとだ。)

その「ギャラクシー賞」が、コピー複合機で、コピー用紙に印刷され、プラスチックの額に収納されて、渡されたときに、受け取る側は何を思うのだろう。とか、身近な例を見るにつけ、「賞」、「アワード」、はぁ、どうなんでしょうね。

「別の文脈でいえば型物の「記念写真」と変わらない」とも酷評できてしまうのだ。あるいは「通行手形」とかね。

そうなると、色々と考えてしまう。
そんな事で、私は、賞には懐疑的だし、冒頭にいう賞などは、ごみ箱に捨ててしまったものも多いし、金属の塊の処分にやっかいな思いを抱くことになる。

それは、もはや古い時代の遺産ではあるけれど、実体を失った「価値」になっているものも少なくないのではないだろうか?

その物質となったものを、元の自然に返却したいという欲望の方が強まっているのだ。しかし、稀にプラスチックで額装されるような扱いの「賞」は、廃棄すらできにくいのが皮肉なことだ。

※冒頭のイラストは「note」の仕様に準じて、お借りしました。ありがとうございます。

うーん、悩ましい事。IT化?デジタル庁?DX?

sakumaga.sakura.ad.jp

 

目的が異なるとのこと。言ってることは尤もなんだよなー。

ただね、ファックスがようやくなくなった!ってPRする社会で(つまりIT化以前の問題)DXをやろう!!!って、結構頑張ってるね。応援したい!

なので、もう一度言う。

基幹系と情報系くらいは理解する大臣であってほしい。情報の統合のリスクと、分散の意義くらい誰でも理解していることを共有してほしい。オードリー・タンほどの天性のものは求めていないから、がんばれ。

んで、なんでも繋げちゃえばいいもんでもないので、
このページの記述はかなりザッパだけれど、基幹系についてはしっかり書いてあるように思う。情報系って、結構幅広いからね。BIとかETLとか書いてないしさ。ERPって聞いたことあるっしょ。担当大臣なんだから。。例えばそれが基幹系。BIってのとかが情報系。

【じゃ、ざっくりと基幹系と情報系について、偏らんようにしてみた】

日立系のサイトから

www.hitachi-solutions-create.co.jp

 

アメフトで有名なオービックって会社のサイト
オービックビジネスコンサルタントじゃないよ、似てるしわかりにくいけれど)

www.obic.co.jp

 

で、BIってこんな感じ。昔はOLAPとか言ってた。ビックデータは「DWH」Data Warehouseの略。だからね、変わってない基本的な要素は。言い方変えただけじゃん。こまごま「違う」っていうのは専門性の壁ってやつね。
(サップって読んだらNGらしいね、JAPって呼ばれたらいやでしょ。って、転職した奴が言ってた。僕もその会社にはいないけれど・・・いい会社だったよ。)

 

www.sap.com

 

【考えた方がよい、っていうか必須ポイント】


あの事件を思い出したらいいんじゃないか?
某実力組織の国境にかかる地域の指揮系統を司るトップと幹部がほぼまとまって「一台のヘリ」に搭乗して、墜落したらしい、という事案。割と最近の事。民間の外資系企業でもそんな「無茶」はしないって聞いた。企業のルールで決まってるってさ。

そういうことを、やめた方がいいんじゃないですか?単純に、「統合する」のをやめてもできるシステムってありそうですが???

大田区生まれなんで、懐かしい土地から選出された平さんだっけ?河野さんのしりぬぐいすることになるっしょ。やめなよー。厚労省を巻き込むのもよくないなー。国民の命を質に入れて、なにしてんですかー?

※冒頭のイメージはnoteの仕様に従ってお借りしています。

はい!!!河野さんと平さんへ、プレゼント♪

gdx-times.com

 

これって、表向きのサービスの事だから、システムをどう構築するかは別のお話ね。だって、デジタルだから「0/1」でしょ。システムはそれぞれで効用があるので、それを接続するのは別のツールとかモジュールがいるよね。基本的にはね♪じゃ、よろしくね。政治屋さん。

Money Don't Matter 2 Night -Prince-

youtu.be

 


最近、世間が「金」「金」「金」で、正直しんどいというか、原理宗教みたいで気持ちがよくはない。適切な価値なのかはなはだ疑問だ。

その熱狂(フィーバー)が沸騰するほど、エコシステムを破壊するし、目の前の課題としても、人を破壊するから。程よくしてほしいものだ。

そういえば、Princeもそうだけれど、フレディも、マイケルも、結局はショービジネスから入って、その拘束力と抗争した人物だったね。今はそういう人はいないし、そういう発想自体を思い起こす事が難しいのかな?


さらにいえば、経験豊富な人ほど飼いならされやすいのが現代の象徴的な現象でもあるかな?
あと、寿命を如何に長くしたいか、とか。
寿命は役割の分だけあればよいのだ。どうしてもそれ以上のものを求めるひとはその分雑多な事を頑張れば、長生きはある程度できるはずだろう。


誰かが「100年働いて、もっと稼いで税金を支払いなさい」と、言っているなら、まずは、その発言を無視するところから、自らの本来の自立が始まるのだろうね。(それは善意で言っているものか?よくよく考えればいいのだ、その判断の自由こそが民主的というのだから。)


※プリンスがメッセージ性の高い曲を作ったりするのをあまり聞いたことがないので、彼にしては珍しいタイプの曲だと思う。

 

#プリンス #Prince #ショービジネス #MoneyDontMatter2Night

「感覚と意識の【バランス】の上で、われわれは生きている」養老孟子氏のムービーより

youtu.be

 

※(「あなたの体は毒に侵されています」ってのは、あまり感心しないタイトルだけど。内容とも遠い話だし・・・・まぁ、いいんだけれど。)



この動画の内容にあるけれど、それが「アート」だと、養老氏は気づいたという。


そういえば、「東京の空間人類学」(ちくま学芸文庫)という陣内秀信氏の一冊でも似たような事を書いてあった。


「都市の中身を構成する新旧織り混ぜた様々な要素とが巧みに混淆し、世界にも類例のないユニークな都市空間」と、東京は評される事があるという。


ということを書いている。それはヒトから見るとそうなんだよね。
その後に、養老氏のこのムービーを見ると、人類学だから陣内氏の評価は適切なんだと気づく。


それ以前に、人類がエコシステムの一部だという事は現代のコモンセンスになったので、人類学の目指すところはその基盤の上にある事だろうね。すると、戻ってきて、次に気付くのは「生物学」や「生命論」ということになる。

※つまり、ヒトはその壁(ブルグ的・城壁内的)の内側で何を認知してきたけれど、それが行き詰ったのが現代。


そこで、それぞれの分野の本物の専門家である陣内氏や養老氏や、そして生物学では「動的平衡」を展開する、福岡伸一氏ということになる。いずれの専門家も研究の到達点や通過点で「同じ価値基盤」に接続しているように見えることなんだよね。


その何れも、基礎に備わっているのは一般教養課程に他ならないので、もっと乱暴に言えば、義務教育なんだろうと思う。その義務教育が良い悪いという問題は除外しておくけれど、本来、その時期にすべきことだろうと思うんですよね。



つらつら書いていたら、結局、アートも科学研究も、生物学も、基礎学問も、エコシステムも、すべて繋がっていることに気付くんだ。そこに下手な壁を作らなきゃいいのに。写真なら、新しい文化なので、なおフレッシュさを失うには早すぎないか?って事も思ったりする。


で、養老氏のここでもいいたそうなのは、「体験・経験・感覚」の割合があまりに薄いので、世間が混乱しているのでは?と、言っているように僕には聞こえてくるんだ。


写真も僕は同じところがあって、写真表現や写真作家?というのは、写真は割と付属物なんで、例えば「歩行」(感覚)が僕の優先事項だ。その過程で写真がぽとぽとと、こぼれてくるみたいな感じ。まとめるのは人間に戻って「意識優先」でやってるって、気づいてくる。

今のところ、そこらへんまではわかり始めてきた。

 

 

たまには、カメラとかの話もしたい。即興で楽しむ感じで。名取・東松論争からカメラの楽しさまで。

多分、4回くらい同じフィルムを使ってしまった、笑


名取・東松論争

artscape.jp


これについては、シンプルに名言しておく。
名取洋之助について、私には評価の埒外である。名取と比べるなら土門拳が同時代では好きだといったら意味が通じるはずだ。要は写真と社会のつながりを重視しているという事なんだけれどね。

 


さて、たまにはカメラの話でもしたい。


手元にある、「キャノン 2d」(いわば、バルナックライカタイプのレンジファインダーカメラ)だ。北井一夫氏も初期に使っていたという情報は入手している。


僕はあまりフィルムの管理などが得意ではない、ずぼら人類である。
だから、このバルナック式を使うのはとても楽しいのだけれど、さらに楽しいと言っては語弊があるけれど、36枚のフィルムを使い切った後、そのままパトローネからベロだしをして、無意識に再利用してしまう悪癖があった。それがこのような冒頭の写真を結構な枚数生み出した。だめだけど、面白い。

 

カメラって、造形的な面白さがあって、見ているだけでもシミジミと感じ入る雰囲気がある。
実際に、関東カメラあたりに行けば、直せる個体も多い。(緑色の基盤を使わないプリミティブな個体に限る)

 

基礎的な要件さえ、体得していれば、割と適正に近い写真はすぐに撮れるし、フィルムの装填も楽しいインターバルになる。ちょっと一区切り、という感じ。デジカメだと、そうは行かない。


特に、ある程度のデジカメとの付き合い方ができてこないと、いつまでもひたすらシャッターボタンを押し続けるという無間地獄に喜んで陥る羽目になる。なんの修行かとも思う。


それに対して、バルナックみたいなちょっと一区切りのペースがつかみやすいカメラは、撮影のペースを自らの本然的なペースにより戻してくれる。うれしいのだ。


しかも、中古ばかりだが、基本的になぜかそこまで高価ではないものがほとんどだ。
バルナック式のソ連版でもある、FED2あたりになると、シャッター音が盛大になるので、おー、今確かにフィルムに露光しただろう!という喜びはひとしおである。しかもFED2あたりは、ソ連製のインダスターあたりで撮影すると、そのシャープさは驚愕のものがある。


そんなことも、たまには思い起こしていると、写真を撮るってのが、すばらしく広い価値から自分に合うものを見つけて、楽しめる事に改めて気付いたりする。

 

写真行為ってのは、純粋に楽しく、良いアドレナリンがでるし、リズム感なんだよね。
最後に、ひとつ思っていることは「楽しい事とリズム感」で、街を歩くと最高に楽しい。


では、また。

お手元の「canon 2d」+「フォクトレンダー 21mm f4 Color-Skopar」

分からないことでもない記事  -価値観のコンダミが起きているのでは?-

news.goo.ne.jp

アメリカ人だったら、多分、同じような気分になりそう。

日本は、次にその波がやってくると思われるので、何かしらの心の準備がいるのかも???いやだなぁ。いや、心の準備じゃなくって実際の準備がいるのかもね。ちょっと大国とかそれを自負するところはセレクト外だなぁ。

ニュージーランドとか、オランダとか、ポルトガルとか、うーん、ぱっと思いつくばかりでは、今回ばかりはよく考えなければ。一時的な離脱で済みそうなのか?それとも、移住なのか?ってのも、別の考え方で平行して進めよう♪
まぁ、それなしに済むのが一番いいのだけれどね。

つまり、SNS地獄になっていない地域を探しているのだ。特に短文SNSだね。あれは、便所の落書きといわれる(ラグビーの有名な選手かマネージャーも評した名言だね)

noteやBlogは、その点で、イージーゴーイングな軽薄さが薄れるので、僕も使っているという面はあるよなぁ。

とにもかくにも、僕なりの解釈をするならば、価値観のコンダミが起きてしまって、価値観の焼け野原になった。という感じがする。アメリカも同様だから、原理的な価値観を持つ勢力が強くなった。

こういうときに、「信」を求めて、いろんな新興宗教とかも出てくるし、反動的に、原理的なものが強くでる。それが政党だったり、代替組織だったり、コメンテーターだったり、それはあらゆる様式で現れるんだろうね。

どれもこれも、玉石混合のものだろう。結局、ヒトは同じ事を繰り返すので、解釈と態度をどうするかをよくよく個人主義的に見なければ、価値観の荒廃に飲み込まれてしまうね。

思っているより、リスクの高い危険水域に僕らは面しているようにも思うんだよね。こんなにはっきりと不自然な現象が世界中で起きているのだから、何かうごめいているようには思う。

【情報の使い方で対応する素案】

あちらこちらの選挙のデータを一元的にビックデータとして多元的に解析する技術は整っているはずなので、情報の一元化というのはこういう時にサードパーティーからの提供を受けて、現象の根源を解析できるはずだろうと思う。
日常では、システムを分散する。だから中央政府はそれぞれの役割をもっている省庁が機能する。省庁(役割)が、それぞれが基幹システムをもっていて、緊急時にせーのっ!って、各省庁の基幹システムや、それ以外からビックデータをまとめて(抽出・統合)して情報系で分析する。(Business Intelligence "BI"など 例示)

【情報の使い方次第かも】
日常から情報を一元管理化すると、リスクも一元化するので、国家システムなどには向かない。それが集中的に狙われたときに守れない。

そして緊急時には、分散された各省庁やサードパーティーのシステムからETL(例示)などで、データ統合して分析系に回す。最後に分析データの解釈を行う。ITが使えるってのは、そういう意味だと思う。

「基幹系」と「情報系」のシステムの概念が理解されていないのが問題だと、常々マイナンバーのシステムについても言っているのだ。それはリスクの方が高いでしょ。

そうやって、色々と紐づけていくと、今の状況が立ち現れるのは最も自然な事だと残念ながら、気づいてしまうだろう。この不自然に感じる現象って、生物学で言われる「エントロピーの増大」として、福岡伸一氏の「動的平衡」を勝手に適用すると、説明されるできそうだけれど、今回の現象は、それがある種の暴走をしはじめているくらいに見える。
基本的な価値観やその判断が混乱を呈しているのだから、何に「信」を置いてよいかわからない状態に陥っている可能性があるとも見える。

その時に、原因を分析するのに、ITシステムは使えるだろうし、最終的には信用に値する質のインフォメーションやメッセージを再度定義しなきゃならないのかも。今、どこからどのように有効なメッセージが出てきても、どれもしばらくは根拠を欠いたままの状況が続きそうなので、しぶとく、柔軟に自分なりの根拠のある価値観をもっていないと、あっという間に世間の価値に流されてふらふらになりそうだ。ひとつ明確なのは、原体験(実体験)の価値が薄くなりすぎているようにも見える。

ここから先を少し書いたのだけれど、流石に公開すべき内容を逸脱しそうなので、やめておきます。

冒頭にもどるんだけれど、数年間でもクルーザーで一時離脱でもしたくなるんだろうとも思う。そういうのもありだと思う。否定できないしすべきでもない。
では、撮影のビジネスは気持ちよく整った状態で迎えたいので、少しばかりオフラインで過ごしますね。

 
 
 
 
 

GIGAZINEさんがほんとの事をを書いてしまった・・・

日本のソフトウェアの品質が低すぎる理由とは? - GIGAZINE

gigazine.net

 

別に、僕が書いているわけじゃない。が、概ねそうだろうといえる。

昔から、護送船団方式といったものだ。あちゃぱー。


最後の締めの段落だけ抜粋しますー。

 

"ロメロ氏は日本の今後について「財閥が江戸時代に続く日本の経済を発展させ、企業間組織が戦後日本の経済を発展させてきたように、スタートアップ、企業、教育の新たな組み合わせから、日本の次の経済成長を生み出す何かが誕生するでしょう」と語りました。"

 

それはー、むずいなぁ。期待はしよう♪

いつの間に?帝京大学って変わったね、1996年卒業生から見た「充実度」

www.designstoriesinc.com

 

 

このサイトにちょくちょくたどり着くのだけれど、意図していたわけじゃない。が、よく見ると毎回帝京大学の「自分流」というキーワードらしき打ち出しと、バナーが見える。しかも遭遇率が高いので「???」って思ってたわけだ。

まぁ、一旦話を整理するために今日一日の振り返りでもしながら、時間を行き来してみたい。

今日は、うちの地域では地方選挙の投票日だった。
今回は、二択だった。

「もう選挙なんていかないなんて、言わないよ絶対」槇原敬之さん、ごめんなさい、オマージュしました。)というより、もっと強烈に思ってた。

行くもんか!30年行ってなんも変わらなかったじゃんか!って、この一年ほどは勝手に葛藤していたのだ。ある意味、怒り心頭だった。隠しがたいほど態度にも表れていたはずだ。

そうはいっても、政治が生活と結びついていることは、大学生時代から理解していたので(つもりかもしれないが・・・)、自ら投票を放棄した記憶はない。特に、この一年はいやいやでも、行っていた感じだ。この30年の間に投票先の考え方も変わった。それは別の機会にでも。

ただ、先の国政選挙の結果が、少々その気持ちの整理を促したかもしれない。さらにアメリカ大統領選は、確信めいたものを感じた。※アメリカ大統領選挙は特に、理解不能な結果に見えたので、その構造を確認するという作業を促している。

さて、そんなわけで、これ以上時代が反動に巻き込まれていくのを何とか食い止める一助になればいいなと思ったりして、一票を投じてきたのだ。結果は知らないけれどね。※反動というのは歴史用語で、進歩の反対。時間軸でいう単位的な後退かな?民主的だったら、政治体質が封建的にもどる。みたいな事。

そんな一市民の一票で何がかわるか?
なんて事は考えるだけ、野暮だ。やる事をやればいい。他人が何か言っても、その信念みたいことに紐づいた行動については、参考程度で話半分に聞いておけばいい。ただ、あれ、これ使えるじゃん。というような身体で読める、共感できることには耳を傾ければいいのだ。

それが積みあがって、選挙結果がでてくる。(それを平然と無視する制度的欠陥が現在の選挙制度にはあるが、そこも、今は割愛。要は死票が多すぎる制度だってこと)

さて、そんな感じで投票所に行って、約5分程度?そんなにかからないで、投票を終えた。

最初に投票に行ったのは、学生時代(20歳)だから、実はこのサイトの運営大学が母校である僕にとって、このサイトと出会ったのがちょうど、「もう選挙なんていかないなんて、言わないよ絶対」と、完璧に決め込んだ時期だったのだ。「迷える子羊」ではない、「迷えるおじさん」だ。
夏目漱石さんすみません。ストレイシープのくだりの「いくじなし」という呟きが聞こえてきそうです。三部作の一冊(三四郎だっけ?)を中学生の時に読んで、そのくだりだけが覚えている光景なんです、笑)

とにもかくにも、「迷える子羊」であったのは学生時代は間違いないので、ちょっと、こっぱずかしくもなったのだ。そういうところは学生時代から変わってないな。。。。ってね。ここまで書いたような事もほぼ本質的に変わってない。

大学に入って、最初に驚いたのは、誰も勉強なんぞしていなかった衝撃の光景だった。いや、本当は違うのだけれどね。時代もモラトリアムだったし、まるで、ドン・キホーテみたいに、時代遅れの人の感じだった。と思う。多分。だって、卒論をまとめるために入学したんだ!とか頭の中で息巻いていたからね。

割とそういう人もいたみたいだけれど、よく4年も通ったと思う。さっさと大学を辞めて、やりたい事に集中してもよかったのだ。けれど、そんな思考回路すらなかった。(だって迷える子羊だから、笑)

本格的に、大学の価値がわかり始めたのは、3・4年次だったかも。ゼミってやつが、稼働し始めたころかな。

「あ、これ、やりたい事だったかも」

つまり、あきれたり、バイトに邁進したりして、大学という存在のプライオリティを下げる作業をどんどんしていった時期なのだ。その文脈で、ようやくかい、ずいぶんと「実学」を売りにしていた大学だったけれど、色々な意味で「実学」の時間をくれたなー。と、思ったりしていたのだ。

だったら、もったいない使い方しないぞ。みたいな。

まるで、この数年の投票の動機と似ているじゃないか!


こんな時代に投票しても(ぶつぶつ・・)といいながら、仕方なく我慢して投票しては、結果をみて「なんじゃこりゃ?」と、ずーっと思っていた。
多分、団塊2世には割といるかもしれない。現在の50歳前後かな?

ただ、違うポイントは、「投票した」と「卒論書いた・まとめた」がイコールではないってことかもね。どう違うのかはちょっと書くのはやめておこうと思う。

なんでって、結果がなんであれ、政治に対する基本的な態度は変わりそうもないから。つまり、投票したら放置プレイにはさせないってこと。放置プレイさせたから、悪事をすぐしたがる。笑

まあ、みなまで書くとうるさい感じになるんで、それはここまで。

で、冒頭の「いつの間に?」ってのは率直な気持ちで、「実学」って、行ってたのは覚えてる、それが「自分流」ってちょっと温度が変わった。いいじゃん。もともと個人主義的な発想の人間だと自分の事を理解しているので、素敵だなぁ、今の学生さん、うらやましいな。って思った。

せっかく、こんな「総合博物館」なんてできているなら、久々に行ってみようかな?なんて気分にもなるのだ。そんなハイカラなもんはなかったからね。(卒業してから母校に行ったのは今迄で一度だけ。写真専門学校に約10年前に入るときに卒業証明書と成績証明書だっけ?のコピーをもらいに行った時だけ)

んで、感じいいので、はりつけておく。辻仁成さんとコラボしているようだ。

 

Design Stories | 作家 辻仁成主宰~海外で暮らす日本人から学ぶ、ライフスタイルマガジン 作家 辻仁成主宰~海外で暮らす日本人から学ぶ、ライフスタイルマガジン www.designstoriesinc.com